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安眠環境開発に腐心するの巻 1996.12.20(金)

 今年ももう残すところあと僅かとなった。秋口から仕込みが始まった青山円形劇場での「谷山浩子101人コンサートスペシャル」全12日間の日程も無事終了し、終わって一心地ついてみればもう年末である。今年はこの「青山円形」の日程が後ろに移動したからだ。

 しかし、この「12日間」というのはヒロコさんにとっては大変な難事業なのである。リハーサル期間を含めると、丸々一ヶ月近く昼間出勤状態が続く。つまり彼女にとって非常に不自然な生活パターンを強制されることになるわけだ。これに対処するための健康管理とコンディションの調整はまさに熾烈を極める。
 おかかえエンジニアとして、私も周辺環境条件の整備においてその一翼を担うことになるのである。

 通常コンサートが近づくと、ヒロコさんはその一週間前からコンディションの調整に入る。普段の夜行性の生活を徐々に「昼行」にシフトする必要があるためだ。
「人間の身体は時差ボケの解消に約一週間を要する」とはよく言われることであるが、これはこのケースにもそのまま当てはまる。
 実際には日程の都合で十分なシフト期間が確保できない場合もあって、コンサート前夜に眠くもないのにベッドに入り、「寝なきゃ、寝なきゃ」と輾転反側を続けるうちに朝を迎え、絶望的な気分で本番を迎えることもたまにはある。
 一日限りの単発のコンサートであれば、こんな無理をしても徹夜ハイと気力で何とか乗り切ることもできるが、連日では到底体が持たない。そこで青山円形の場合、科学的に吟味された完璧なコンディション・コントロールが要求されるわけである。

 今年の青山円形は11月17日、つまり例年よりずっと寒くなってから始まった。
大変な寒がり且つ睡眠下手のヒロコさんにとって、十全なる温暖な睡眠環境の確保こそが今年のコンディション調整のメインテーマとなることは想像に難くない。こういった長期昼間活動というハイプレッシャーの状態においては、睡眠環境上の不具合が普段の10倍以上の不満の種となって不眠を誘発するからである。今回は慎重の上にも慎重を期し、完璧な対策を講じなければなるまいと決意を固くし、私は種々のプランを以って事に当たることとした。

 まず下準備として、早朝に外部が明るくなっても寝室内に完全な暗黒を提供し、起床時刻まで安定した睡眠環境を確保する事から作業を開始した。
これには写真の暗室用品が性能的に優れている。寝室の窓に暗室用遮光カーテンを吊るして完全な暗黒を作り出す。ここまでは簡単に成功した。
 然るに遮光カーテンはプラスチックシートであるため、空気層の介在による遮温性能は著しく低い。その証拠に窓周辺の外気との温度差から寝室内に対流が発生し、ベッドの枕近辺に顕著な冷気流の存在が認められた。そこで遮光カーテンの内側に厚手の布製のカーテンを吊るし、二重構造とすることでこれに対処することにした。

 この複合構造のカーテンの効果は著しく、11月中旬までの段階においてヒロコさんからは十分な評価を得るに至っていた。
 しかし本番が近づく頃になると、環境に対するヒロコさんの要求水準は一段と厳しさ を増す。
「まだ僅かな空気の流れが寝室内に認められる」
 と言うのである。
「冷たいばかりでなく、気流による空中の塵埃の動きがノドに悪影響を及ぼす可能性がある」
 とも言う。
 そこで私は静電方式の空気清浄器を寝室に導入した。これはファンを使用しないため無音であるし、集塵能力も高く大変具合が良い。僅かにオゾンの匂いが漂うがヒロコさんはこれを嫌いではないはずである。

 しかしこの程度の対策では彼女の最終的なOKは得られなかった。
この段階で環境オタクと化している彼女にとって、一匹の蟻の存在は象にも匹敵する。最早常識が通用する世界ではなくなっているのだ。
 11月15日夜、本番二日前を迎え、ヒロコさんは「完全な無風状態の現出」を私に命じ た。
 寝室内の僅かな気流の根絶なくして安眠は有り得ないとの事である。
 これは大変困難な注文である。寝室をこれだけ完璧に対策してしまうと、今度は他の部屋との温度差が生じる。それによって寝室内に新たな対流を生じせしむる結果となってしまったからだ。

 しかし無茶な要求に応え得るのが一流のエンジニアであり、かつ私にはこれまでにも様々な不可能を可能にしてきたという自負がある。かくなる上は究極の対策を講じるしかない。
 それは「酸素テント」の導入である。つまりベッドの枕の周辺をすっぽりと透明ビニールで覆ってしまおうというのである。
 だが本番までにはもう時間がない。医療機器メーカに努める友人に手配するにしても、東急ハンズあたりで資材を調達するにも余裕がなさ過ぎる。酸素ボンベの調達もままならない。  こんな時、各種の極限状態においてサバイバルに成功してきた私のキャリアがものを言う。手近にあるロープとマイクスタンドとビニールシートを組合わせ、テント様のものを作り出すまでは簡単だ。最大の難関は酸素の確保と二酸化炭素の排出である。これについては酸素分子と二酸化炭素分子の重量差を利用して、自然還流を促すメカニズムを作成した。何の事はない、すきまだらけのにわか細工がこれに貢献してくれただけの話である。

 一応の作品が完成したところで、酸素補給量や換気能力について、私が昼寝をして人体実験を行ってみる。寝相は私の方が相当悪いので、この実験を通じてシステムの耐久性についても十分なテストが可能である。眠っている間に暴れてテントを壊し、窒息でもされたら大変であるからだ。
 このテストの結果二、三の安全性に対する問題点が見つかり、直ちに修正を加えた後、ヒロコさんに製品の引渡しを行った。運用の結果は上々であり、今年の青山円形の長丁場はこのシステムによって支えられたといっても過言ではではないだろう。

 12月2日、千秋楽を終えた夜、鬱陶しいとの理由でこのシステムは運用を解除された。
 大事が終わってみれば、いかなる苦労の成果であっても、それが単なる邪魔モノへと評価が急変するのは人間精神の常であって、これに不満を抱く根拠を私は持ち合わせていない。
 連日のコンサートという様な精神的興奮が持続する時に、酸素テント様の閉所感覚が心理的安定をもたらす事は、猫の習性そのものだが、これがある種の人間に適用できることも了解している。
 これ位の人間存在に対する深い洞察と、それを裏付ける科学的知識、更には愚直なまでの問題解決への意思と行動力、これら諸々の能力に総合的に秀でていないと、こうした変わった職業の持ち主のサポートは到底つとまらないね、などと独り悦に入っていると、ヒロコ姫はすっかり原状復帰して遅〜いお目覚めである。
 「11時間も寝ちゃった…」ですと。酸素テントがなくても。
 まあ、それでも私は十分満足なのである。


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