これまでの経験からよく考えてみると、ヒロコさんの場合、冬の北海道でホテルにカンヅメ6泊7日となると色々不都合が出てくることは想像に難くない。
例えば冬場に地方のコンサートなどに出かけると、深夜に宿泊先のホテルから「寒くて眠れない」などという訴えの電話が掛かってくることは数知れない。そんな時、「暖房を強くしたら?」などという当たり前のアドバイスはヒロコさんにとっては無効だ。彼女の喉の粘膜は非常にデリケートなのだ。冬の暖房は空気の乾燥を助長する。コンサートを控えて朝起きたらノドがバリバリでは困るのである。
それなら加湿器を入れてもらったらどうか?
これもあまり望ましくはない。何故なら最近の加湿器は水が切れると、ピーピーうるさく電子音で鳴き続けるのである。一晩中水がもつ程加湿器のタンクは大きくない。睡眠下手のヒロコさんがやっと安眠したところで、コイツに叩き起こされる失敗は幾度となく繰り返されてきたのである。
従って臨機応変にその場その場の状況をよく聞き出し、バスルームのドアを全開にし、バスタブにお湯を張って加湿器代わりにするとか、毛布をもう一枚借りて窓に掛けるとか、様々な工夫が要求されるのである。
しかし一晩限りの宿泊であれば、この様な鬱陶しい緊急回避措置で切り抜けることも可能であろうが、これが6泊となり且つ連日のコンサートとなると、メンタルなストレスの方も心配になってくる。
うーん、これはお抱えエンジニアとしては同行をせざるを得まいか…。
…てなわけで、私は日程をやりくりしてフルに富良野に同行する決意を固めたのであった。
2月6日、旭川の空港に降り立ってみると予想された程寒くはない。それでもヒロコさんは「ウヒー、寒いよ〜〜〜」と縮み上がっている。これは中々先行き不安な兆候だ。慌てて迎えのバスに乗り込み、ホテルに駆け込んでみると今度は暑い位に暖房が効いている。なるほど一歩も戸外に出なければこれは長岡氏の言う通りであろう。
とりあえず部屋に入り、私は早速防寒・安眠対策の検討を開始した。おおよその実施案が固まったところで一心地着けていると、まあ人生とは常にこんなものだということなのであろうか、案の定マネージャーの宗さんから不吉な知らせがもたらされた。
聞くところによれば、このホテルの中には美容室が無い。ホテルは富良野スキー場のふもとにあり市街地からは相当離れている。だから最寄りの美容室まではかなりの距離があり、タクシーで往復を余儀なくされる。リハーサルの時間、食事の時間、諸々の支度の時間等々を開演時刻から逆算すると、かなりキツイ時間配分が予想される…というのだ。
つまり市街の美容室への往復は、彼女にとって貴重な睡眠時間を割き、なおかつ寒い戸外に決死の覚悟で飛び出す事の代償によってのみ可能となる。その上毎日タイトに時間刻みでワサワサと追い立てられるわけだ。これが5日間続けば、ヒロコさんのフィジカル・メンタル両面のコンディションには全く責任が持てないことは容易に予想がつく…と、私が予想する間もなく、すでにヒロコさんの顔色がサッと曇っている。しかし曇られても、宗さんとしても如何ともし難い状況であろう。
熟慮の後、私は決断した。
「私が美容師をやりましょう。シャンプー&ブローにかけては腕に自信がありますから」
お抱えエンジニアの本能は未知の領域であるにもかかわらず、私をして自信満々にこう言わしめたのである。
ヒロコさんの様な細い髪の場合には、どうボリューム感を出すかが問題だ…などと早速イメージトレーニングを始める私であったが、当面の面倒を回避できる喜びで、私の腕前の心配にまで心が至らぬ風情の宗さんは、
「あっ、そうしてくださいますか! ではこの問題はそれで解決ということで…」
と言い放ち、ヒロコさんの返事も聞かずにさっさと行ってしまったのであった。
実のところ用意周到な私は、万一吹雪で外出不能な事などもあろうかと、私愛用のブローブラシやスジ立てなどヘアケア用具一式を持参してきていたのである。不足するものはヘアムースにスプレーだけだ。特に「天使の輪」をきれいに出すためにはヘアスプレーが無いのはマズイ。私は早速タクシーを駆り、近くのコンビニでこれらを買い込んで事に臨むことになったのである。
こうして私がにわか美容師を務めることにより、ヘアメイクはリハーサル後の夕食と本番との僅かなすき間に押し込めることが可能となった。これは大変な時間の節約となり、通常の谷山クルーとは大違いの倫典氏の入念なリハーサルで時間が押しても、ヒロコさんにはゆっくりと夕食をとる余裕が生まれたのであった。
さて、私のブローの成果はどうだったのであろうか。作業中にはこれが天職ではないかと思える程の髪さばきであると、我ながら自負していたのではあるが…。
…結果はコンサートのアンケートに現れていた。幾人ものファンの方が
「今日の浩子さん、キレイ過ぎる〜」
「浩子さん、ただ事ではない程美しい!」
「きれいな天使の輪に思わず見とれてしまいました」
等々、賛辞の嵐を送ってくれたのであった。(谷山註・このへん誇張アリ)
6泊7日の間、ヒロコさんは予想通りホテルから殆ど外に出なかった。僅かに先のコンビニに同行して夜食を買い込んだ時と、比較的暖かい晴れた日にホテルの庭先にある喫茶店で紅茶を飲んだ以外は、外の空気を吸っていないのである。しかしこれもコンサートに臨む体調維持努力以外の何ものでもない。
人は「えっ、富良野まで行ってスキーもしなかったの!」などと呆れるが、あのヒロコさんが厳冬の北海道でそんな事できるわけもないのであった。
こうしたカンヅメ状態での連日コンサートはやはりかなり堪えた様子で、せっかく持参したプレステ&FF7も殆どやらず終いではあったが、内助の功あって少しでも気分良くコンサートに臨めたのであれば、お抱えエンジニアの私としてはこれに優る喜びはないのであった。