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五線紙を作った 1997.9.6(土)

 ヒロコさんはこの夏、かつてない程多忙な日々を送っている。
 デビュー25周年と101人コンサート300回達成が重なり、諸々の行事が多い上に、初めて他人(岩男潤子さん)のアルバムをプロデュースしたり、かねてから懸案のCD-ROM制作が現実化したりして、息つく暇もないわけである。
 その上彼女はひどい凝り性であるために、その一つ一つに自ら深く関わらなければ気が済まない性質で、余計忙しくしているきらいが無きにしもあらずである。
 ホームページの更新が滞っているのもすべてこうした事情によるものであり、この夏に限って、ゲームにハマッているとか、決してそういうことではないことを私はここで明らかにしておかねばなるまい。本当に忙しいのだ。従って当然お抱えエンジニアの出番も多くなるのは当然の理なのである。

 例えば、本人のオリジナル伴奏付き譜面集の出版が予定されている。これは比較的決まったパタンでピアノが演奏される何曲かについて、彼女のピアノ伴奏をまんま譜面にしてしまおうという企画である。従ってメロディ・右手・左手の三段を使ってきちんと記譜しなければならない。
 ヒロコさんの場合、ピアノは殆どアドリブで弾いていて、パタンが比較的決まっている曲でも演奏のたびに細部は結構気ままに変化している。
 ある日ある場所での特定の演奏を譜面化するのであれば「Memories」あたりからその道の業者にコピー譜を起こしてもらえば済んでしまう話なので、全然有り難味がない。
 またピアノ弾き語りの名手である彼女は、一曲の中でもA、A'、A''…、1番、2番、3番…など繰返し毎に演奏に変化を付けて表情豊かなダイナミクスを生み出している。これを全部正直に譜面化するのは余りに大変であるし、弾く方もシバリがきつくて嫌になってしまうだろう。
 従ってヒロコさんは、これらを上手く工夫・整理した上で公約数的な譜面を起こしたいと考えるに至ったのである。これはやはり本人にしか出来ない業である。というわけで、ヒロコさん自ら譜面起こしということになった次第である。

 さてこの譜面原稿を書くのにはフルスコア用の五線紙が最適なのだが、当然の如く普通の文房具店などでは売られていない。しかし昼間に音大生協やヤマハなどに買いに行く機会が中々ない。また彼女は好みが激しいので「こんなのが欲しい」というお気に入りのものがあって、無闇に人に頼む訳にもいかない。
 そんなこんなで買いそびれているうちに締切りがギリギリに迫ってきて、あと五日以内に原稿を渡さなければならないというところまで追い詰められてしまった。当然ストレスが溜まりに溜まり、ヒロコさんの機嫌はすこぶる悪くなってきた。ともかく大至急五線紙だけでも入手しなければ万事休すである。

「そこまで追い詰められる前に何とかすればよかったのに」と人はお思いになるかもしれない。しかし日程がタイトであればあるほどウダウダしてしまうのは一部のA型に典型的な症状なのであって、これは理屈ではないのである。その心情には察するに余りあるものがある。何故なら私はこの手の性癖について最大限の理解を示す者の一人だからだ。平たく言えば、私もそういう性癖を持つ一人であるということに過ぎないのではあるが。

 だがここで現実に目を転じてみると事態は急を告げている。ウダウダにシンパシーを感じているだけではどうにもならない状態にあるし、最早残された可能性は極めて限られている。…いや、たった一つしかない。
 そう、私が五線紙を自主制作するしかこの緊急事態を回避する方法は残されていないのであった。
 そうと決まればあとは行動あるのみである。早速私は彼女が最も書きやすい理想的な五線紙の仕様を詰め、その制作に取りかかったのである。

 ヒロコさんが最も早く自然に書けるオタマジャクシのサイズを分析し、種々の試作を繰り返した結果、線間1.5mm、段間8mm、18段組、一段8小節、A3サイズ横位置の五線紙が一番使い易いという事になり、仕様はこれで完全に決まった。
 あとは何ほどのこともない。メタファイルでチョコチョコと線を引いてA3のレーザプリンタで必要な時、必要部数を出力すれば良いだけである。
 仕様決定から完成まで僅か35分。まったく機転といい、技量といい、忠誠心、実行力、冷静沈着さ等々、あらゆる面からみて理想的なお抱えエンジニアである自分に気付く瞬間である。後は残された時間を最大限記譜に回せばかろうじて締切りをクリアできるであろう。

 真新しい理想的な専用五線紙を手にしてヒロコさんは感謝感激である。こういう時こそお抱えエンジニア冥利に尽きる瞬間である。
 しかしここまで来るとヒロコさんも真剣そのものだ。深夜におなかがすいてファミレスに行っても、食べながらテーブルの上でピアノを弾く指使いを確認しながらセッセと譜面を書いている。話し相手を失って私は退屈である。で、書きかけの譜面を覗き込んで鼻歌を歌いだしたら、
「いま音を取ってるんだからね。邪魔になるんだからね。お歌は後で歌おうね。」
 と叱られてしまったのであった。

 ま、こんな具合にして譜面の原稿はギリギリ間に合った。この譜面集を手にされた方には、ヒロコさんが紡ぎ出した美しい楽曲達に酔いしれると共に、しばし縁の下で僅かばかりの力を貸した小さな存在がこの出版を支えたことに思いを馳せて頂ければ、私としてはこれに勝る喜びはないのである。


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