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☆第一章「妻の不在」 第一節「この空腹をどうしてくれるのだ」

 家に帰ると妻がいなかった。
 ダイニングテーブルの上に見たことのない豪華な皿が並んでいる。でも、その上に料理がない。
 私は急に空腹を覚え、ない料理を食べる真似をしてみた。しかし想像力を全く持たない私の腹は減るばかり。せめてメシを、と台所を探せども炊飯器が見つからない。
 なに、炊飯器がなくとも、鍋でもメシは炊けるさ、と、流しの下の引き戸をカラリと開ける。米櫃の蓋をとると、ハタハタハタと穀象虫が飛び立っていく。異臭に中身を覗く勇気も出ない。
 テーブルの上にはシリアルの箱。中はもちろんシリアルだと思うがやはり変な臭いがする。乾燥した食物が臭うとは余程ひどい化学反応を起こしているのであり、むろん食べたら死ぬに決まっているし、触っただけでも指先が腐ってきそうだ。いやそれどころか、眺めていると脳髄までも、じわじわと蝕まれていくような…。

☆第一章「妻の不在」 第二節「台所の悪夢に迷いこむ」

 いつのまにか、私は魅入られたように右手の親指をなめ回した。その甘美の味は、私の前頭葉をハンマーで叩きつぶして塩と大蒜と生姜で炒めて自分で食べたようなとでも言おうか、私の表現力の輪郭を極限まで広げようとするかのような魔味。
 いったい誰がこのような罠を仕掛け得たか、ブロードの中の一本の麦藁、上湯の中の一片の桂皮、フォンの中の一ひらのバイマックルーが爽やかに香り立つように、スプマンテの泡が軽やかに立ち登る。その芳醇な香りのハーモニーが鼻孔を駆け抜け、嗅覚神経に与える媚薬にも似た感覚は、私に妻のことを思い出させた。
 妻だけがこの複雑な台所の構造を熟知しているのだった。私とは正反対に几帳面な性格で整理整頓を好む妻はナプキンの四隅を奇麗に合せ、焼上がりのタルトを均一な円に抜くのである。

☆第一章「妻の不在」 第三節「台所の悪夢に迷いこむ」(承)

 泡立て器の描く完璧な楕円軌道も、炊きたてご飯のつぶやきも、すっかり錆びついた鍋の底で眠っている。
 その時、部屋の片隅からガサガサとうごめく音がきこえてきた。
 私はうめいた。ゴのつく物だけは絶対に嫌だ。他の事を考えよう。他の事。ほかほか。そうだ、ほか弁でも買って来ようかと思ったその時、電話がかかってきた。空虚な家の中を、リリリン…リリリン…と、ベルの音だけが、甲高く鳴響く。音は薄暗い廊下を走り、居間の出窓のガラスを叩き、誰かいないかと空しく叫ぶ声も、むなしく反響するだけだ。
 ひっそりとした廊下の奥に、人の気配を感じた私は、耳をそばだててみる。だが、平常心を失ったいまの自分には、既に現実と想像の区別さえついているかどうかわからない。
 もしかしたら妻は本当は目の前ににいて、私の顔を見てくすくす笑っているのかもしれない。それどころか妻などは、ケラケラと嘲笑しているのでは。

☆第一章「妻の不在」 第四節「目眩と囁き、それは妻の影」

 たまらなくなって私は廊下をずっと庭へ向かおうとしたが、足がもつれる。むなしくもがくうち、不意に目の前がすうっと霧がかかったように曇る。
 湯気、この湿気はまさに湯気であった。鍋の蓋を開け続けていれば、この芳醇な湯気の雰囲気中で、私は私の汗と吐息と、そしてこれらを生み出した私の悲しみにまみれて死んでしまうだろう。
 ところが突然私の前に目の中に入れても痛くないソフトコンタクトレンズのような妻の影が現れたのは、空腹のもたらす幻想なのか。わからない。混乱する頭の中で、突如、私は近寄って舐めたいという衝動を抑えきれなくなった。
 さあ、舐めるのだ…じわりと一歩にじり寄った足元に、ポタリと水滴が落ちた。ポタリ、ポタリ…、見上げた天井には一面にびっしりと薄黄金色に輝く水滴の粒が敷き詰められていた。私は息を飲んだ。

☆第一章「妻の不在」 第五節「注文の多い主婦の台所」

 水滴に覆われた天井がステンレスのような光沢を放っている。床もだ。ここは鍋の底か、天井のピッタリとした気密性を確かめ床を蹴ってみる。どうやらビタクラフトの中らしい。
 この鍋の中の、どこかにきっと妻がいる。そんな気がして思わず妻の名を叫ぼうとした…が、声が詰まった、妻の名は、妻の名は…妻の名が思い出せない、だけではなかった。私は、妻の苗字すら思い出せないことに気づいた。妻の苗字が思出せない上に妻の住所も思い出せない。
 その時妻の声がした。
「あなた、全身に塩をなすりつけてくださいね、うふふ」
 私は凝然として立ち尽くした。これは私の妻ではない。少くとも私の知っている私の妻では。私の認識している私が婚姻関係を結んだ私と熱海へ新婚旅行に行って私に蜜柑を剥いてくれた私の妻であるはずがない。
 鏡の中のその顔は、まったくの見知らぬ他人。そして両目から流れ落ちる黄金色の液体は、海の豊饒を思わせる芳香を放っていた。

☆第一章「妻の不在」 第六節「閉ざされた台所空間」

 ふと、空腹であることを思いだした私はあたりを見回した。ここは鍋の中だから何か食べられる物があるかもしれないではないか。
 おお、そこに誰か倒れている。人間を食うわけにはいかないが。それでは人を食った話になってしまう。まだ、お後がよろしいようで、などと作り笑いをして幕をひくにも早すぎる。
 だが人間、空腹には勝てるはずも無い。目前を幻覚の皿が飛び交っている。子羊の香草焼きの芳ばしい香りが嗅覚神経を刺激する。グリルに肉汁が滴り落ち、それが一瞬のうちに香ばしい湯気となり、私に南大門市場の屋台を思いださせる。ソウルに行きたいと思えど、ソウルは遠い。
 それはともかく今はこの閉ざされた空間からどうやって脱出するかを考えなければならないだろう。そして、私は妻の行方を捜さなければならない。何としても。

☆第一章「妻の不在」 第七節「ダシ汁の霧にむせびながら妻の痕跡を追う」

 こぶしを握り締めていた。突如として訪れた決意に、一歩が、自然と踏み出されていきおい余り、ずず…と滑る。
 黄金のダシの海を、私はさざ波立てて滑っていく。爽快な昆布と鰹の香りに満ち満ちた風が、転げていく私の頬にあたり、恍惚感さえ感じて意識が遠のいていく。
「眠ってはダメ」。
 囁くような妻の声が遙か彼方から聞こえた。私は再び立ち上がり歩き出した。
 手足はとうに感覚を失い、ダシ汁の吹雪が容赦なく私に襲い掛かる。額に昆布が張りつき、襟からカツオブシが侵入する。
 ダシとは私の心であり、妻の命である。急流にもまれ、むせかえりながらも私は、自分と妻を結ぶ唯一の絆と今では思える、この激しい流れに身を任せ、流れの果てを確かめようと心に決める。
 黄金に光り輝くこの流れの向こうから、一条の光が見える。きっと、あの光のもとにたどり着けば、妻に逢える。私はダシ汁の流れを遡った。

☆第一章「妻の不在」 第八節「妻を求めて三千里」

 無限の時間が過ぎ、とうとう源の崑崙まで辿りついた。だが妻はいない、無限の時をさまよった私はいつしか神仙になっていた。
 しかし話にきく崑崙がこんなに荒れ果てた都市であったとは。
 不老不死の肉体を手に入れた私だが、まだ空腹が満たされた気がしない。幾億里を越えて吹きつける風が激しく頬をうち、限りなき空腹が五臓六腑をかきむしる。
 ふと思いついて口笛を吹くと、五色の雲が滑るように足元にまとわりつき、それはやがて金色の龍となって一声吠えると天高く舞い上がった。
 私の意識は、舞い上がる龍を追った。
 それと同時に、私の体も意識を追うように舞いを演じた。
 天の龍、追う意識、舞う体、この三位一体の動きがセカンドインパクトの与える損傷から私を守るのだ。危険なのはふと我に返って自分のしていることを外から眺めてしまうことだ。自分に没せ、自分に帰れ、そして…妻は何処に?

☆第一章「妻の不在」 第九節「天龍の導きで妻の足跡をたどり崑崙をさまよう」

「尼寺へ行け」  …金色の龍の声が、天空を揺るがした。意外なことを言う奴だ。  崑崙の頂より流れる清水は、やがて集まり甘露の大河となる。その末にあるという尼寺に妻の足跡を尋ねようと心に決めた。
 ああ妻よ、私の愛しい妻よ、おまえの作るあたたかいセーターを再び身にまといたい。崑崙のたぐいなき羊を材料にすれば、さぞかし羽のように軽い、着ればたちまち体が宙に浮かび上がるという天女の羽衣のような薄衣ではないか。袖を通してみると、誂えたように私にぴったりである。おお、これぞまさしく伝説の羽衣ではないか。
 はかなく透ける衣をまとい、私は宙に身を躍らせると、ぐんぐんと天上に舞い上がり、崑崙の頂が見えた。すると、羽衣は黄金に輝き、天地を照らし出す。頂から麓へ、うっすらと9本の光る筋が流れるように広がった。
 この徴が示す場所に妻がいるに違いない。私は歩き始めた。

☆第一章「妻の不在」 第十節「転生」

「この道はあなたの未来に続いています」
 歩いていく私の耳元に優しい声が囁きかける。
 その声の主は、と見ると極彩色に光り輝く小鳥が、まるで私に連れ添うように飛んでいる。
 まばゆいばかりの光を放つ羽をひらりひらりと揺らしているその小鳥の方へふらふらと吸い寄せられていくと、小鳥はつぶらな瞳でじっと私を見た。首をかしげると、カっと目を見開き、クチバシから紅蓮の炎を放った。
 私は全身、炎に包まれたような感覚に襲われた。しかし、すでに精神の集合体となっている私の体は、炎をよける必要はない。
 私は精神の新たな器となる生命を探しに出かけた。精神体としての寿命は永遠でも、限りある肉体に宿ってこそ生の意味がある。
 最もふさわしい肉体が、私自身の他に誰かいるだろうか。いる。それは妻の肉体だ。
 妻に転生するために私はこの天をさすらうのである。私の中に妻が満ちる、そんな光を私は見たのだ。


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